各話の説明、裏話などです。ネタバレあり。執筆順の掲載です。

 ■自粛期間
 ■ステイホーム
 ■マスク
 ■医療崩壊
 ■9月入学
 ■クルーズ船
 ■ソーシャルディスタンス
 ■うわさ
 ■ふたりキャンプ
 ■冬へ
 ■アフターコロナ
 ■コロナのせいで
 ■GoTo
 ■楓
 ■報道物語
 ■再会
 ■春の兆し
 ■あれから10年
 ■春の夜のラジオ
 ■冬眠
 ■沈黙
 ■映画とドラマと男と女



■自粛期間 [ 2020/08 ]

一番最初に書いた話です。コロナ禍の日常を描くという趣旨から「まず日常会話を」と考えました。

しかし男女ふたりの会話のみという二人芝居のような造りで、シナリオをはじめて読む人には面白味を感じてもらえるか不安でした。

なので公開時の順番は3番目。4本書きためたところで公開し、掲載位置を3番目にしました。目次はその後また並び替え、「とっつきやすい順」にしましたが。

アヴァンタイトルで会話のクライマックスの1つを見せ、そこから時間を遡って何気ないやりとりを開始し、あの最初の会話にどう繋がるか、というわかりやすいツカミにしてます。

出だしですぐ席を外すのは、長い会話のしんどさを軽減するため。

そんな工夫をしながら、書きたかったのはなるべく長い会話でした。飲み会は2時間3時間続くのが当たり前です。フィクションの飲み会シーンはその一部を切り取ってるにすぎない。物語はそういうもので、日常はダラダラと続くもの。

そのダラダラ感を醸しつつ、物語としての引き締まりを同時に意識しました。

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■ステイホーム [ 2020/09 ]

書きたかったのは衝突です。

遠慮なく衝突するとしたら家族。衝突という短い時間を描くとしたら電話。ということで気の合わない父と娘が久々に電話で話す、というシチュエーションにしました。

短時間にこだわったのは短編のせいもありますが、他人の喧嘩を長く見るのが耐えがたいところが自分にあるからです。喧嘩でなくても熱いやりとりは性に合わない。人は普段感情的にならないことで日常を保っているはずです。沸点の低いキャラクターやドラマにはリアリティーを感じません。

しかしドラマは感情の変化やぶつかり合い、それによる行動などを描くものです。相反します。

ただ大事なのは、衝突や爆発、行動に至るまでの過程でしょう。急がず無理なく進められているかどうか。

苦手な衝突をあえて書こうとしたのは、政府行政の愚策がこういった末端の家庭にも及ぶ、影響するというのを書きたかったからです。本来なら起こらずに済んだ諍いが起きる。繋がっている、という話です。

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■マスク [ 2020/09 ]

マスクと絡めた終盤のセリフが書きたかったことでした。そこからマスク→仮面→仮面夫婦→別居中の夫婦が再会、と大筋を考えました。

マスクについてのスタンスの違いから銀行員とスポーツ選手というキャラクターが浮かび、価値観の不一致が別居の原因、しかし食い違い始めたきっかけは不妊、流産…と後付けし、ストーリーを作りながら設定を膨らませていきました。

と言っても説明は大雑把です。それで済んだのは短編だからでしょう。また「シナリオだから」というのもあります。

小説ではある程度必要な説明も、シナリオでは省略可能です。シナリオは描かれたことがすべてで、描かれなかったことは受け手が埋めていい余白。それを埋めるのも楽しみの1つなので、いろいろ裏設定があっても書かない、あえてはぶく、ということはあります。

しかし説明不足は、人によっては物足りないかもしれません。キャラクターと境遇が近い人は「そんなものじゃない」と不満になるかもしれない。

ただ物語は断片でしかない、物語はそういうもの、というのも自分が書きたいことの1つです。

この話の夫婦にしても、それぞれが日々の断片を切り取り解釈し思い込み、つくった物語によって食い違う。物語によって誤る人たちの物語。

自分が描き続けているのはそれかもしれません。

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■医療崩壊 [ 2020/09 ]

最初に書こうとしたのは「自粛警察」でした。自粛しない人を個人的に取り締まる側。自分なりの正義があっての行為。正義は我にありと信じるからこそ攻撃的になる。

行き過ぎは勿論褒められませんが、そちら側にもそれなりの理由があるはずで、それを書こうと。そして起こした行動がどう波及し、今後にどう影響するか。

タイトルの「医療崩壊」に至る理由は政府行政の対応、医療機関のキャパシティーなどいろいろあるはずですが、医療従事者を忌避するような一般の意識も一端になると思います。ひとりひとりが大きな問題に繋がっている。

非常時には本性が露呈する、とよく言われますが、露呈したことは平時に戻っても社会の端々に、人々の心の隅に残るでしょう。今の行動はコロナ禍を終えた未来まで考えての行動か。

ラストの糾弾は耳が痛いかもしれませんが、差別された側の痛みはそれ以上のはずです。避けるわけにはいきませんでした。主人公が帰宅したあとの抱擁は救いのために追加したものです。

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■9月入学 [ 2020/09 ]

ストーリーのある話が続いたので別物を書きたいと思いました。

山口瞳さんの「江分利満氏の優雅な生活」が昔から好きで、あれは小説というよりエッセイ、著者の実生活を加工したものだと思いますが、特に好きなのは「公園で何をするか」という章。ストーリーはなくほとんど雑談のような内容で、話題があちこち飛びまとまりはなく、しかし語り口が面白くてどんどん読み進めてしまう。

そもそもこの連作を始めたのはエッセイ的なものを書けないかと考えたからでした(他でも書きましたが)

平然と公文書を改ざんするような日本政府に怒りがあり、しかしそれを小説で書くのは難しく、かと言ってそんな状況を無視して娯楽作を今の日本で(日本を舞台にして)作るのも苦しく、ハワイを舞台にした小説を数編書きましたがそのうちコロナ禍が発生。世界的に非常時になり、この現実を無視した物語はもっと書けない、としばらく悩みながらエッセイを書きました。しかしそれも物語にまつわる題材だけを選んだ特殊なもので、エッセイは本来日常のこまごまを拾うものでしょう。

そしてテレビドラマなどのフィクションは(制作スケジュールの都合はあったでしょうが)まるでコロナ禍など起きてないようなものばかり。それは3.11の時も経験したことでした。あの大災害などまるでなかったようなフィクションが続き、しかし直後にフィクションに反映するような軽薄も耐えがたく、自分は2年以上物語が書けませんでした(これも何度か以前に書きました)

しかし今回のコロナ禍は、同じ非常時と言えど震災とは違います。震災は突然壊された日常をどう戻していくかの困難でしたが、コロナ禍はひたひたと迫り世界を覆い油断できない生活が長く続くもの。感染の危険が身近にある日常をすくい取れないか。それがこの連作を始めるきっかけでした。

なのでストーリーのある話を書きながらエッセイのようなものを混ぜたく、「江分利満氏~」はお手本のように考えていたのでストーリー展開がほぼないこの「9月入学」はやっと書けた感じの1本です。

いかに話題を散らしゲームや学校や社会、そしてタイトルに辿り着くか。散らかってるように見えて最後まで通して読むと過不足ない、というのがめざしたところです。

ただ「とっつきやすさ」を考えるとどうだろう、と目次では今の位置に。これより上位の話を面白がってくれた人なら読んでもらえるか、という位置づけになっています。

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■クルーズ船 [ 2020/09 ]

9月の連休に前作と合わせて書いた話です。前作の初稿を終えたあとすぐに取りかかりました。

短いものは1つ1つ仕上げるより並行して書く方がよかったりします。まるで別タイプの話を同時進行すると気分が変わり、コダワリもいい具合に抜けたりします。

前作は全編独白でしたが、本作はドキュメンタリータッチ。

前半は顛末のモンタージュです。本当はもっといろいろ詰め込みたかったのですが、最低限でいいと割り切りました。別の切り取り方をすればまた違った話ができるでしょう。真逆の話だって書けるかもしれません。そういうのを今後書いてみると、お互いに比べられていいかもしれませんね。

ダイヤモンド・プリンセス号の騒動時にその対応のまずさを批判するSNSの投稿などを見ましたが、批判の矛先がほぼ政府に向いてるのに違和感がありました。

もちろん政府対応の甘さ遅さは批判されるべきですが、対応の杜撰さを現場で実際目にした人が大勢いたはずです。その人たちに責任はないのか。日々身を粉にして支援に当たったとしてもです。それとこれとは別問題。

そこから本作の主人公を考えました。告発すべき時にしなかった医師。できずに自ら職を辞した元医師。

平時には場の空気を読んで遠慮したりが美徳だったりしますが、平時と非常時ではすべきことが逆になりがちです。生き死ににかかわるとき遠慮はむしろいけない。その切り替えができず、空気を読んで周囲に流され、自ら責任を取ることを大勢の人が避けた結果、日本は先の戦争に至ったんじゃないか。大きな犠牲を出したんじゃないか。

これは「物語論あれこれ」というエッセイで、映画「この世界の片隅に」を題材にして書いた章でも展開した考えです。エッセイを書くことでモヤモヤしたものがクリアになり、そこから物語になった1つでした。

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■ソーシャルディスタンス [ 2020/10 ]

まずタイトルありきでした。様々な人間関係の「距離」について考え、つくった話です。

家族のように距離が近いと相手を同一視し、雑になり、時には嫌悪を抱いて離れたがったり、取り返しのつかない断絶に至る。

しかし家族ではない他者は冷たく、会社も社会もいざというとき味方になってくれない。親身になってくれるのは家族。

しかし他人との関係は薄くて遠くとも、繋がりは切れない。そして支えにもなる。

いずれの関係にも肩入れしないように努めました。そういう曖昧さは感銘度を落としますが、キャラクターの機微で補ったつもりです。物語を引っぱるのは奇抜な世界や事件より機微、という好みからでしょう。

主人公の女子高生と男子同級生の最初の会話の違和感。「父親」と説明する前の夜道での追跡。男子同級生と二度目の夜道での会話を割って見せたこと。それらはあえて設けたヒッカカリです。どこにどの程度挟んでいくかが工夫した点でした。あざといと言えばそうですが、物語はどれもそんなものです。そういった積み重ねのうえに面白さや感動がある。それに自覚的になるのは悪くない、と考えています。

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■うわさ [ 2020/10 ]

前作までのストーリーはこの連作の企画時に一気に考えたものでした。そのすべてを書き終えていったん区切りがついた気分でした。

新型コロナに関するワードからストーリーをつくり、まだまだ「夜の街」や「おうち時間」などありますが、いつまでもそれに縛られるのはどうか。「東京アラート」や「大阪モデル」などすでに懐かしいワードもあります。定着しなかった名称や施策は無意味だったんでしょう。それを批判する話を書いてもいいのですが、ムリクリつくるのは不毛な気がしました。

で、今後どうしようかと考えた頃に思いついた話です。

菅内閣による学術会議の任命拒否問題に絡み、政治家や著名人やマスコミがデマを流すことが続きました。

それについて書こうと思い、最初につけたタイトルは「デマ」

しかし書き上げたあと話の雰囲気に合わないと改題しました。漢字の「噂」でもなくひらがなの「うわさ」

題材は新型コロナと直接関係ありませんが、そもそもこの連作は日常を切り取るのが目的です。その日常を描けばおのずと新型コロナの影響は入ってくるだろう、とこれまでよりこだわらずに書きはじめた1本目でした。

書きたかったのは終盤教師に言わせた内容です。自分が今まで何度も書いてきたメインテーマですが、この連作では控えてました。しかしデマを扱うならここまで書かないと収まらないと考えました。

で、あのような論が口にされるシチュエーションは? 人間関係は? と考えた時に浮かんだのが「生徒と教師」

高校生は前作「ソーシャルディスタンス」でも扱ってます。主人公が女子高生。本来なら避けたいところでした。かぶっていいことはありません。しかし上記の理由で二連続の学生ものになりました。

実際の高校生にとってリアリティーがあるかどうかはわかりません。なかにはこんな子もいるだろう、とは思いますが。

それは担任教師についてもそうで、あんな話を生徒にする教師がいる? と引っかかりましたが、もし自分が教師だったら「言うかもな」ということでアリにしました。

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■ふたりキャンプ [ 2020/11 ]

後半に出る「自己肯定感アゲ」がモチーフでした。育児の分野で昨今よく目にし、違和感があったからです。

自分はこの肯定感を持つまでにかなり時間がかかった方ですが、それまでの自己否定の期間は精神的にきつかったものの、それはそれで意味がありました。

むしろ「自分は正しい」「間違ってない」と自信があった時の方が停滞し、「自分が悪いんじゃないか」「間違ってるんじゃないか」と不安で否定的な期間の方が新たな発見や進歩がありました。なのでできれば自己否定をアゲたかった。

勿論他人に否定されたり、否定感を植え付けられたりは我慢なりません。

それでも自己肯定ばかりでいいはずがない。両方大事でしょう。そのあたりからつくった話です。

注意したのは説教くさくならないこと。父親は自分の思い出を話すだけ、息子に何か言いたいわけじゃない。

これは黒柳徹子さんの影響です。ある談話で黒柳さんは自分のことを口にするだけで、他人についてもつい言いたくなるような話題でしたが一切口にしませんでした。意見を表明する時の姿勢として今もお手本にしています。

物語のヒキはいろいろ仕込みましたが、その1つ、息子の不登校の理由は最後まで明確にしませんでした。中学生ぐらいの内面は複雑で言語化しにくいものと思っていて、はっきり書くよりいろいろに思える方がいいのでは、と。短編のシナリオではそこらを狙うのが限界な気がします。

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■冬へ [ 2020/11 ]

老人を書こうと思いました。この連作ではほぼ書いてなかったからです。

あとはワクチン開発の朗報でコロナ禍がターニングポイントを迎え、これまでを一度振り返った方がいい気がしました。

ワクチンには勿論期待してますが、だからといって政府行政のこれまでの対応を水に流していいはずがありません。未知の経験で難しいことが多かったにしても、次に活かすため検証は必要でしょう。

だいたい冬を前に感染者が増えてもなかなかGoToを止めなかった政府です。本当に乗り切れるのか。どんどん悪くなるんじゃないか。そして自分を含め人々は、その現実から目をそらし、気晴らしで誤魔化しながら日々を過ごしてるんじゃないか。

ストーリーの構成は他と多少違ってます。前作までは書きたいテーマを受け入れてもらうためにストーリーを組み立てていく、いわば「御膳立て」のような造りでしたが、本作はまず書きたいテーマを書き、それで気まずくなったふたりがその後どうなるか、という後付けです。議論のあとにドラマが生じ、そのなかで前半の問題提起の糸口が見せられる、と考えました。

ただ老人の言うことに反感を抱く人は、後半まで持たないかもしれません。それを防ぎたく老婦人の微妙なリアクションなどを工夫したつもりです。

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■アフターコロナ [ 2020/11 ]

女性目線が足りない、というのがまずありました。これまで書いた連作を数えると男性主人公の方が多く、この偏りは解消したいと。

あとは短編の連作ですが、もっと短いものを書きたいと思ってました。話によってはある程度の長さが必要ですが、いつも目測より長くなっていたので。

本作は街中で見た光景をそのまま扱っています。このぐらいコンパクトな話をもう少し書けたら、と考えています。

タイトルはあらすじを組み立てたあとにつけたもの。小さな話に「アフターコロナ」とはずいぶんオーバーな印象ですが、自分にはしっくり来ました。

まだまだ先が見えず気が早いかもしれませんが、これだけ大規模な災禍を経た影響は至るところに残るでしょう。シンプルな規範を必要とする世代、多感な時期を過ごす子供たちには、「大人が思う以上に」かもしれません。それを表現できそうな題材に思え、タイトルを付けたことでゴールがはっきりし書き出しました。

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■コロナのせいで [ 2020/12 ]

ラブストーリーを書きたいと思いました。コロナ禍の難しい時期を描こうという連作でどうしても理屈が多くなり、もっと情緒的な、それをメインにした話が書きたいと。

と同時に、密を避けなければいけない今も恋をしてる人は大勢いるはず、という当たり前と言えば当たり前のことがありました。恋愛ばかりを描くのはこの時期どうかと思いながら、それをあえて避けたり扱いが少ないのも偏っていると。

うまくいかなかった恋の話です。ありふれています。

いい思い出しかないために忘れられず、後悔し、あり得たかもしれない今や再会を空想し、そういった物語が日々の潤いになりながら、今や未来を縛っている。

物語の弊害。それでも必要なこと。

これは長年書き続けてるテーマです。この連作ではあまり書きませんが大事なことと思うから。人の世の諍いはほぼこの物語に由来すると思えます。だから伝えねばと。

しかし決して歓迎されないでしょう。物語を欲する人はそれが好きだからこそ見たり読んだりするわけで、それが「弊害にもなりうる」と言われても拒絶反応を起こして当然です。他人が好きなものを否定しちゃいけません。それぐらいはわきまえてますが、「それでもなお」という気持ちがまだ強い。頑固は頑固なんでしょうね。売れたいだけならこんなテーマは選びません。

ただ本作で短く、情緒的なストーリーに絡めてみて、とても端的に抵抗なく伝わるように書けた気がします。

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■GoTo [ 2020/12 ]

新型コロナについての昨今の議論を見るにつけ思うのは、なぜこんなに複雑なのか、多種多様の意見があるのかということです。

理由を自分なりに整理すると、新たな事実が次々判明することや状況が刻一刻と変わることもありますが、根本的な解決とはほど遠いからでしょう。だから無駄な議論が多いようにも感じる。

では根本的な解決とは何か。感染の封じ込めです。日本政府はそれをすっかり諦め、ワクチンが普及するまでのあいだどう耐えるか、どうしのぐか――そういう方針にシフトしたからのGoToキャンペーンでしょう。医療従事者や製薬会社の頑張りに頼り、「いずれは」はなんとかなると期待し、自力で解決することをやめ、はっきりした見込みのないその場しのぎの対応。それについての議論じゃフワフワするのは当然です。

だいたいなぜ封じ込めに失敗したのか、諦めざるを得なくなったのか。それは政府の初動ミス。入国規制が遅れ、クラスター対策に固執し、PCR検査を渋り、その元を辿れば東京五輪やりたさで判断が遅れたこと。そのミスを反省しないまま「こうなった以上どうする?」と場当たり的な対応を続け、さらに誤魔化すために余計なことをして(アベノマスク、GoTo等々)どんどん話をややこしくした。

そして市民に自粛を求めながら自分たちだけ特別扱いのような姿勢を続ければ、信頼をなくして当然です。誰も従わなくなる。一時期いた自粛警察がすっかり消えたのも当然ですね。移動を勧めるようなブレブレの政策をされたら、その権力と自分を重ねて規律を押しつけることなどもうできない。「今は動くな」というシンプルな号令だからこそ従えたのに。

そもそも人は複雑なことにそう耐えられません。話を単純にしたがる。自分に都合のいい事柄だけを選び意見を組み立て、しっくり来ないことは見もしない。それは仕方ないところもあります。政治家や専門家は複雑な事象に耐えて判断するのが仕事ですが、一般人はそこまで暇じゃない。暇がないから専門職に任せてるとも言えます。

しかし専門職の彼らがブレブレでは誰もあてにならない、自分のことは自分で決める、となる。こっちはこっちの生活あるから! 意見は細分化して分断が広がります。

それは平時なら多様化で悪くありませんが、感染症の蔓延という非常時には最悪。同じ方向を見て同時に進まければいけないのに真逆に行ってるのが今でしょう。

もし最初からまっとうな方針一択だったら、こうまで混乱しなかったし分断しなかったし収束だってしたかもしれない。すっかり信用をなくした現政府が今後改めても、人々がまとまるのは難しい気がします。本作中にも書きましたが、選挙で政府を一新すればまだ効果があるかもしれない。

いま一番必要なのは、そもそもどこをめざすべきなのか、何が間違っていたのか、一度立ち返ってみることじゃないか――そんなところから考えた話です。

そもそも論というのは青臭いことの代名詞のように言われますが、目の前の足元ばかりを見て進んでいてはいつの間にかおかしな場所にいた、ということになり兼ねない。足元を気にしつつもめざすべき遠くを見据えて行かないと。

タイトルにはそれらを込めました。トラベルでもなくイートでもなく「GoTo」で切ったのはそのためです。

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■楓 [ 2020/12 ]

しばらく前から吉岡里帆さんのラジオを聞いていて、先日上白石萌歌さんがゲスト出演した時にadieuの楓(スピッツのカバー曲)がかかったんですが、そこから着想を得た話です。とてもいい曲でした。主人公の名前もそこから取って楓。

それをそのままタイトルにしたりは滅多にないのですが、書きたかったのは私生活を犠牲にして働く医療従事者です。その毎日と比べると一般人がどれだけのん気か、それは前から書きたかったことの1つでした。

ただ前作の「GoTo」でも医療従事者を扱う予定だったので、かぶっていいことはなく、どうしようかと迷ったのですが、じゃあいっそのこと同じキャラで、と同一人物にしました。こういった続きものの形はこの連作で初めてですが、あっても面白いかなと。

なので前作と合わせて1つの作品とも言えます。前作の楓の背景にこんなことがあった、という裏話のような。2020年の年末の連休に、併せて書いた2本です。

あとは不倫に向かいそうな色気みたいなものが織り込めればと。

物語を排しファクトを重視する主人公ですが、それでもなんらかの物語を求めてしまう、支えにしてしまう。そしてここまでつらく孤独な戦いを強いられたら、世に言う「不倫」に向かいそうなのを誰が責められる? 強い主張とか問題提起ではありませんが、そういうものを抱えてしまうのが人なんだ、と思います。色気を混ぜつつ現時点ではブレーキをかけ、自らを抑え込む健気さでとどめたつもりです。

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■報道物語 [ 2021/01 ]

以前ハワイを舞台にした連作小説を書き、主人公が新聞記者でその時にも書いたのですが、自分は報道を「物語」の1つと考えています。それを今一度書きました。

繰り返そうと思ったのは本作中にも書いたネット上の投稿がきっかけです。政治報道で何気なく使われている言葉に中立性、公平性を損なうものがあり、それを問題視する内容でした。

うなずける点は多々ありましたが、しかし自分はどこか冷めていて、それはやはり「報道も物語だからなぁ」と考えているからです。事実を正確に伝えるのは無理だし、それを厳しく求めるのはなぁ、と。求める側の意識だってどうだろう。

それで過去作からコアの部分だけを抜いてまとめました。

しかしこの考えや物語についての論は、独特で多くの人にはすぐうなずけないと思います。あまりに通念と違い過ぎる。

だからこそ作者としては、ムダを省き最短ルートで書いたつもりです。それでなんとかギリギリ伝わるか、という難題に思えたから。コアだけを改めて書くのも意味がある、と思ったのはそれでです。

そういった方針でのまとめ方などは、また作中で書かれた内容そのままですね。いかにして物語が組み立てられるか。その実例として見ていただくとなかなか面白いんじゃ、と思います。

タイトルもそう。「報道物語」というタイトルから想像した話とは、「ちょっと違った」となるんじゃないでしょうか。本作はドラマというより議論です。原稿を依頼したい編集者と乗れずに渋る作家、ふたりの感情の動きというドラマ要素は一応あっても、味付け程度で書きたかったのは議論。それでもこのタイトルにしたのは、やはり意図的です。狙ったというほど大袈裟じゃありませんが、まぁ許容範囲だろうと思いました。そういったことも報道のあれこれにリンクするんじゃ、と思います。

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■再会 [ 2021/02 ]

前作が議論、理屈づめだったのでその反動でしょう、情緒的なものが書きたくなりました。

前作の脱稿からとりかかるまでに10日ほど空き、そのあいだに思ったあれこれが詰まってます。今期の連続ドラマの感想。陰謀論。物語の危うさ。それがないことのむなしさ。しかし人々は物語がなくても生活し、他者とのつながりや趣味は大切な潤いで、なのにコロナ禍はそれらも奪い――というところから浮かんできたのは中年女性、子育て世代の主人公でした。

ストーリーを組み立てている時に感じたのは山田太一さんの影響です。改めて大きいな、と。

作風を真似たつもりはありませんし、見る人が見ればおそらくまるで違うでしょうが、自分の下地には染み込んでるようです。事件を起こしたり起こす人より、起こさずに持ちこたえてる人や状況が書きたい。短編だからあまり事を起こせない、という事情はありましたが。

それでも連作中で一番長いものになりました。膨らませて独立した1本にすることは可能でしたし、一瞬よぎりましたがコロナ禍での進展は「リアルじゃない」と思い、「共感を得られない」とも考えてやめました。切り上げてこそ表現できるものもあるでしょう。こういったさざ波が起きては消え、積み重なっての人生じゃ、と思っています。

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■春の兆し [ 2021/03 ]

東京五輪に絡む一連の女性蔑視発言で書こうと思いました。

しかし差別という難題を扱えばどうしたって理屈っぽくなります。短編なのでストーリーを膨らますわけにいかず、言葉でストレートに書くしかないので。

前々作の「報道物語」が理屈っぽい話だったため、類似はしばらく避けたいと気乗りしませんでした。書きだすまでに時間がかかったシナリオです。

しかし何も書かないでいるよりいい、とりあえずテーマについてまとめるだけまとめよう、と始めました。まとめて気が乗らなきゃボツにすればいい。困る人はいませんしね。たいていの場合はなんとか形になりますが、この連作でも数編ボツにしてます。

で、差別について改めて考え、外せない点をまとめました。差別とは何か。くくること。なぜ生まれるのか。蔑視はいけないが違いはあるんじゃないか。そして違い、多様さは豊かさだろうけど、寂しさを生むし距離を取らないといけない場合もある。

そんなこんなから浮かんできたのが元恋人のふたりのキャラクターと、再会のストーリーです。差別というテーマよりこっちをメインにすれば、と持ち直しました。

あとは個人的なこと。今年の年頭に(目標や抱負というほど大袈裟じゃありませんが)自分と異なるものをなるべく避けまい、と決めたのがあります。ネットの影響もあって昨今自分好みの情報だけを選びがちで、よくないと考えてました。そしてこの連作のためにも。次々ネタを見つけるにはあまり興味のない事柄もかじってみないといけません。

またテレビの「さまぁ~ず論」で大竹さんが話してた内容も残ってました。コントを組み立てる時に自分ひとりだと「なんか違う」とモヤモヤするばかりで、しかし相方三村さんと話すうちにクリアになる、進展する、という話。別の意見をもらうというより、話すことで自分の中に新たなものが芽生えるといった感じで、会話することの効能、不思議さ、少し前に見聞きして「あるある」と共感しました。

それらをごった煮したのが本作です。三題噺ですね。

時系列で描かなかったのは差別というテーマについて話すのを不自然にしないためです。自然にその話題まで持っていくのはそれなりにアプローチが要りそうで、しかし短編のためにその余裕はありませんでした。だからと言って唐突に切り取れば、いかにも意図的な感じが否めない。ただしそれを最初に持ってくれば薄まるんじゃないか。時間の流れを複雑に編集した物語は、受け手に集中力を求めます。この場面はいつのこと? 前の場面の続き? それによって細かな疑問をスルーさせる効果がある。誤魔化しと言えば誤魔化しですが。

タイトルは少し悩みました。「春の兆し」というタイトルを見て読みはじめると、途中までは恋の始まりそうな予感、明るさを醸すでしょう。しかしストーリーは逆に行きます。読後にはモヤモヤするかもしれません。なぜこのタイトルにした? しかし春先という時期的にアリとしました。日本でもワクチン接種が始まり、また女性蔑視発言でいまだ蔓延る悪習が露わになって憤りはあるものの、今後は少しよくなるんじゃ、という期待があって付けました。

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■あれから10年 [ 2021/03 ]

東日本大震災から10年という今年の3月11日前後は、去年より震災関係のテレビ番組が多かったと思います。

その1つに山田太一さんのドラマ「時は立ち止まらない」の再放送がありました。2014年に放送された単発ドラマの再放送です。

山田太一さんに対するリスペクトはこれまで何度か書きましたが、このドラマについては初見のとき感心せず、それが今ならどうか、確認のために再見しました。

結果は7年前と同じ、感心しませんでした。

津波で婚約者を亡くした娘が疎遠になった相手家族に会いに行きます。亡くした婚約者を忘れたくないという思いからです。しかしあれこれ話す場面が続き、本当に忘れたくないならまず仏壇に手を合わせないか? とひっかかる。

そういった細部をはじめ、このドラマは「もし被災者が見たらどうか」そればかりが気になりました。我が事に思えるか。被災者よりそれ以外に向けて作られたドラマな気がします。それはそれで構いません。被災者よりそうでない人の方が多いんですから。しかし被災者を置き去りな気がしました。

寄せられる善意に感謝するしかない被災者のやりきれなさが、前半描かれます。それはいい。共感する被災者はいるでしょう。しかしそれ以降の、娘と弟のエピソード、父親ふたりの過去、それらは極々私的で震災を扱うドラマで描くべきことだったのか。そういった極々私的なことにこそ個があり価値がある、というのはわかりますが、震災を扱うドラマならもっと優先して描くべきことがあったんじゃないか。ドラマを作る機会が少なく貴重なチャンスだったとしても、作者が書きたいことを注ぐスタンスで臨むのはどうか。

自分は東日本大震災のあと2年以上物語が書けませんでした。フィクションがあのような大災害時、非常時になんの役にも立たないのを実感したのがあります。「無力」と幻滅しました。

しかしそれよりも、フィクションは作者が自由にコントロールできるもの、都合よくまとめられるものです。震災で人の無力を思い知ったはずなのに、それでもなお思い通りの物語をつくることに、当時は抵抗しかありませんでした。「軽薄」と嫌悪しました。

それでも人には物語が必要、と再び書くようになってからも、震災を中心にしたものは書けませんでした。

自分の方が深く考えて誠実だ、と言いたいのではありません。しかしもし書かざるを得なくなったとしても「これじゃない」

フィクションが被災者の慰めや励ましになるとは今でも毛頭思ってなく、語り継ぐにはインタビューやドキュメンタリーで充分と思っていて、風化がどんどん進めばフィクションの出番はあるかもしれませんが、しかし少なくとも「これじゃない」

震災からまだ3年という時期にそれを扱うドラマが作れたのは、山田太一という名前があってこそでしょう。内容の曖昧さ複雑さわかりにくさは評価を難しくし、でも名前のブランド力があって高尚のような、さらにドラマ関連の賞をいくつか取ったようで、批評をためらうには充分です。

しかし果たして本当にいい作品だったか。これを高く評価していいのか。「これじゃない」という違和感の方が自然じゃないか。そういった疑問が拭えませんでした。

しかし「これじゃない」と言うだけで自分はいまだ震災の物語が書けない、書いてない、批評するなら自分なりの「これ」を示さないといけないんじゃ…と書いたのが本作です。

被災者の人たちに「自分もこれと近い気持ちがある」「周囲に似た思いの人がいる」と感じてもらえることだけを心がけました。

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■春の夜のラジオ [ 2021/04 ]

差別を扱った前々作「春の兆し」で書き切れなかった点がありました。人が細かく感じること、それ自体の否定です。

感覚というのは大事にされがちで、個人的には大事にされ過ぎな印象を持っています。しょせんは過去の蓄積に左右されるものでしょう。経験が増えればどんどん感じ方は変わります。しかしどんどん正確になるというものではなく、積み重ねで変に固まったり、偏りがさらに増しておかしくなる場合もあります。

「こう感じるからには意味がある」と持ち上げると、嫌悪感や差別意識さえ意味がある、となる。そしてそれらを表現するのも「表現の自由」と。多様性を言うなら偏見や差別さえ認めろと。

「いやいや他を否定するような多様性は認められません」という反論にはほぼほぼうなずけるものの、それでも少しモヤモヤします。それよりもまず「感じたことには意味がある」という思い込みから疑わなきゃいけないんじゃないか。まずはそこに引っかからないと根本的な解決には至らないんじゃないか。

しかし前々作では書けませんでした。そこまで含めると話の流れが悪くなったからです。いつかまた別の機会に書けばいいと割愛しました。

その後この考えについて確信を深める出来事がいくつかあり、本格的にテーマに据えたのが本作です。

またそれとは別に、明るいもの、笑えるものが書きたいと考えていました。シリアスな話が続いたせいです。

しかしコメディタッチとこのテーマはどうも相性がよくなく、悩んだ末に仕上げたのがこの形でした。架空のラジオ番組のヒトコマで、ストーリーはありません。

ラジオは番組の進行がパーソナリティーの裁量に任されたり(勿論番組によりますが)とても自由な雰囲気があります。そばで交わされる雑談を盗み聞きしてるような身近さがあって、日常に溶け込んでいる。それでいてプロの話し手によるものだから面白かったり真面目だったり日常会話とは一味違う。音だけだからこそイメージが膨らみ、身近に感じつつも別世界を味わうような楽しさがある。

そんな世界にはめ込むのが一番ポップに表現できそうな気がしました。動きがないので仮に映像化したら退屈なものになるかもしれませんが、シナリオ文学としてならアリだろうと。元々内面のテーマで観念的すぎて、どんなストーリーに落とし込むのも厳しかったかもしれません。舞台として利用させてもらうので、ラジオの魅力をなるべく表現できればと思いました。

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■冬眠 [ 2021/04 ]

自粛というのは人の善意をあてにすることなのでなかなか難しいだろうな、そうは続かないだろうな、と思っていました。いろんな人がいますから。ではどうすればいいか。

悲しいかなそれは損得勘定を頼るしかないんじゃ、と。

例えばドンと給付金を出してこれは巣ごもりの資金です。なのに協力せず不要な外出をしたら、その分は差し引きます。没収します。そうなれば人はより外出しなくなるんじゃないか。

ではそれを実施するとしたら?

最適なのは平年でも休みが多い年末年始でしょう。この前後に数日足して外出禁止の期間とする。非常時なので私権をいくらか制限するのは仕方ない。併せてPCR検査の拡充、感染源の追跡調査の徹底、感染者の隔離と治療に力を注げば、かなりの短期間でウイルスを封じ込めるられるんじゃないか。ダラダラと長い期間我慢し続け、経済活動をはじめとした様々な動きを停滞させるよりいい。

そう空想したのが去年の秋口でした。

しかしそんな案はどこからも聞こえないまま、実際どうなったかはご存知の通りです。GoToトラベルはなかなか停められず、年末年始には第三波が起き、二度目の緊急事態宣言の発出、でもろくに対策しないまま解除して第四波の兆し、各地で「まん延防止」の適用が進められる状況です。

もし空想の巣ごもりを実現したらどうだったろう、というのがモチーフでした。仮定の話、ファンタジーです。

この連作でファンタジーは初めてですが、あってもいいかなと思いました。統一感にこだわりはなく、むしろ雑多な方がいい、それこそ日常でリアルと考えています。

しかしファンタジーと言えど現実と比べてどうか。おかしなのは現実の方じゃないか。このファンタジーの方がずっとまともな世界じゃないか。そう感じてもらうのが目標でした。

そのおかしな現実には自分自身も含まれています。現在のリーダーたちを軽蔑しながら「こんなものか」とどこかで諦め、許容している。本気で怒ってない。

勿論これまでさんざんガッカリさせられたので「こっちのせいだけじゃない」「冷めても仕方ない」と反論したくなりますが、それでもどんな社会を残し、未来に渡したかは今の大人たちひとりひとりの責任になってしまう。このままでは恥ずかしい。後世の人たちに問われてしまう。それがモチベーションの1つでした。作中の端々にあるいはそれが出ているかもしれません。

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■沈黙 [ 2021/05 ]

池江璃花子選手に東京五輪の出場辞退を求める声が寄せられたという、あの騒動がモチーフでした。報道や反響にモヤモヤしたからです。池江選手に限りませんが、参加選手は五輪開催について今どんな気持ちか、どんな意見でいるのか…それが一番気になりました。

表明した選手で憶えているのは体操の内村航平選手です。「なんとか開催できるように考えてほしい」という、あれはあれで意見の押しつけ、五輪に関係ない人にも努力を求める指図で、今回の「辞退して」「開催に反対にして」と大差ないと思いますが、ともあれ「スポーツ選手はこうなのか」と判断する材料の1つにはなりました。

勿論まるで違う選手もいるでしょう。しかしまるで違う意見が聞こえてこなければ、「スポーツ選手はこうなのか」と判断しかねない。

それは池江選手にしてもそうで、開催について自身の意見はどうなのか。開催するにしても延期するにしても受け入れるだけか。「反対しても変えられない」というのは違うでしょう。錦織圭選手のように参加選手が意見を言うのは大きい。

池江選手は弱冠20歳でまだ子供ですから、意見を強く求める気は実はありません。引っかかったのはそれより報道や反響が「責めるなら選手でなく国や都やIOCを」という類似ばかり、横並びの点でした。

勿論いまだ開催一択の国や都やIOCを追及するのはいい。しかし参加選手も当事者のはずです。リベラル系と呼ばれる人たちがよく言うように、「政治が悪いのは結局それを選んだ人たちの責任」「声を上げないのも意思表示の1つ、選択の1つ」

参加選手は何も言えない、沈黙するしかないというスタンスでいいのか。それが選手のあるべき姿か。そして周囲はそれをかばうだけでいいのか。情に流して不問に伏すような危うさを感じました。

昨今気になるのは1つ上回ったことを言ったり聞いたりするとそこで終わってしまう傾向が社会を覆ってないか、という点です。もっと上が、さらに1つも2つも進む先があるのに、止まってしまう。大事なのは思考を止めないことじゃないか。

さてシナリオです。東京五輪に参加予定の選手が主人公ですが、競技については明確にしませんでした。すればいろいろ迷惑になるだろうとはじめから書く気はなく、シナリオという会話劇なら乗り切れるだろうと踏みました。しかし小説ではおそらく無理でしょう。ある程度の具体性が求められ、書かずには済まない。この連作をシナリオで行こうと絞ったのは、実はそのへんが理由でした。

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■映画とドラマと男と女 [ 2021/06 ]

以前書いた「再会」のキャラクター、テレビドラマの脚本家を再登場させました。テーマがうまくハマると思ったからです。かと言って前作との繋がりはほぼなく、独立した1本です。

テーマから考えたストーリーですが、別れた夫婦の久しぶりの会話というシチュエーションの方がメインになり、テーマはだいぶこぢんまりになりました。よくあることですがそれでいいと思ってます。テーマは最低限書けたつもりだし、感情の動きの方が大事なので。

タイトルはなかなか決まりませんでした。書く前に決まることが多いし書き終われば自然に決まるものなんですが、本作は書き終えてもなかなか浮かばず、結局ナツメロの曲名をもじったものに。嘘はなくオーバーでもなく、おかし味があってキャッチーな気もしてわりと気に入ってます。

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